ロマンチックな逸話として広く信じられている「月が綺麗ですね」ですが、文学研究者や編集者の調査によって、「夏目漱石自身が語ったという一次史料は存在しない」という事実が明らかになっています。岩波書店が刊行する『夏目漱石全集』をはじめ、当時の弟子や知人たちが残した膨大な回想録、講義録、書簡のどこを探しても、この場面を裏付ける一次情報は確認されていません。
この逸話がいつどこから広まったのかを追跡すると、昭和50年代前後の出版物にその原形が見出せます。1970年代から80年代にかけての翻訳論や随筆の中で、「かつて漱石がそう言ったとされる」という伝聞形式で紹介された記録が散見されます。しかし、誰が最初に書き起こしたのかという決定的な出典はいまだ特定されていません。
専門家の間では、「明治の文豪ならそう指導したに違いない」という後世の期待や、文学サロンでの語り草が活字化され、伝言ゲームのように漱石の伝説として定着した「文学的都市伝説」であるという見解が有力です。本人の発言という確証はないものの、漱石が持つ繊細な美意識と日本情緒のイメージにあまりにも合致していたため、半世紀以上にわたって事実であるかのように語り継がれてきたと言えます。