今日でこそ世界的な「忠義のシンボル」として称賛されるハチ公ですが、その生涯と歴史の経緯を掘り下げると、最初から人々に愛されていたわけではないという過酷な現実に突き当たります。上野教授の死後、駅周辺をうろつくハチ公は、当時の人々から見れば単なる薄汚れた大型の浮浪犬に過ぎませんでした。
渋谷駅の改札口で邪魔者扱いされ、駅員から水をかけられたり棒で叩かれたりすることは日常茶飯事でした。通行人の子供にいたずらされ、顔に墨を塗られたこともあります。さらに当時は狂犬病の予防策として野犬の捕獲・殺処分が頻繁に行われており、ハチ公自身も何度も野犬狩りの網にかかりそうになる危機を経験しています。
状況を一変させたのは、日本犬保存会の初代会長を務めていた斎藤弘吉氏の行動でした。渋谷駅で虐待される秋田犬の哀れな姿を目撃した斎藤氏は、関係者から身元を聞き取り、1932年(昭和7年)10月4日の朝日新聞に「いとしや老犬物語」と題した寄稿を行いました。「主人の死を知らず、今も駅で待ち続ける名犬」という記事が朝刊の一面に掲載されるや否や、全国から同情と絶賛の声が殺到。渋谷駅にはハチ公宛ての寄付金や食べ物が山のように届くようになったのです。
しかし、この美談化には当時の不穏な社会情勢が色濃く影を落としていました。1931年の満州事変以降、日本社会は急速に軍国主義へと傾倒していました。「主君に対して命尽きるまで変わらぬ忠誠を尽くす」ハチ公の姿は、国家が国民に対して求めた「忠君愛国」「滅私奉公」の道徳教育にうってつけの素材とされたのです。小学校の修身(道徳)の教科書に教材として採用され、ハチ公は純粋な動物の領域を離れ、国家プロパガンダの強力なシンボルへと仕立て上げられていきました。
ハチ公の晩年、1934年(昭和9年)4月には、本犬が出席する中で盛大な除幕式が行われ、初代の銅像が渋谷駅前に建立されました。生きている間に自らの銅像が建てられるという異例の栄誉に浴したものの、そのわずか11カ月後にハチ公は世を去ることになります。