本作の清太の描写を正確に理解する上で欠かせないのが、原作者・野坂昭如氏の自伝的小説とアニメ映画の決定的な違い、そして高畑勲監督が意図した演出メッセージです。
原作小説の著者である野坂昭如氏は、実際に戦時中の神戸で妹を餓死させた過去を持っています。しかし、野坂氏が執筆した動機は「美談」ではなく、「妹を飢えさせて死なせた自分自身への激しい悔恨と懺悔」でした。原作小説や当時の手記において、野坂氏は「泣き叫ぶ妹に耐えかねて頭を殴ってしまった」「妹にやるべき食料を自分が盗み食いして生き延びた」という生々しい罪の告白を残しています。小説における清太の愚かさや無力さは、野坂氏自身が抱き続けた「妹を殺したのは自分だ」という消えない贖罪意識の投影だったのです。
一方、スタジオジブリのアニメ版を手掛けた高畑勲監督の演出意図は、さらに冷徹かつ批評的でした。高畑監督は生前の各種インタビューや著書において、明確に次のように語っています。
「この作品は決して単なる反戦映画ではない。清太は当時の戦時体制下における軍国少年というよりも、『社会とのわずらわしい人間関係を嫌い、自分の好きな世界だけに閉じこもろうとする現代の若者』として描いた。清太が叔母の家を出て防空壕に閉じこもる姿は、現代の引きこもりや、孤立を選んで自滅していく若者の姿そのものである」
高畑監督は、全体主義の抑圧から逃れて「節子と2人だけの自由な楽園」を築こうとした清太の純粋さと、その純粋さが招く凄惨な破滅をあえて対比させました。現代の視聴者が清太に対して「クズだ」「見ていてイライラする」と反発を覚えるのは、高畑監督が意図的に埋め込んだ「社会性を拒絶する個人の脆さ」が生々しく突き刺さっている証拠と言えます。