日本国内の議論で最も混同されやすい概念が、自殺幇助と尊厳死の違いです。ここを曖昧にしたままでは、海外の法制度を正しく理解することはできません。
「尊厳死(消極的安楽死)」とは、回復の見込みがない終末期において、人工呼吸器の装着や人工水分・栄養補給といった過剰な延命治療を差し控え、あるいは中止して自然な死を迎える行為を指します。日本国内でも日本救急医学会などのガイドラインに沿い、リビングウィル(事前指示書)に基づいた延命中止は一定の臨床的合意を得て運用されています。一方、「積極的安楽死」は医師が致死性薬物を注射器等で直接注入して死に至らしめる行為であり、これは日本の現行刑法下では殺人罪(刑法199条)あるいは承諾殺人罪(刑法202条)に問われます。
スイスで実施されているのは、これらとも異なる医師幇助自死(Assisted Suicide)です。医師は処方箋の発行と薬物の調合、安全な投与環境の準備を行いますが、最後の引き金を引くのは「患者本人」でなければなりません。致死薬を自らの手でコップから飲むか、点滴のバルブを自らの指先や口元のスイッチで解放することが絶対条件と定められています。患者が自力で薬物を体内に取り込む動作ができない場合、いかなる団体も自死を幇助することは法的に禁じられています。
この運用を担保するため、スイスの各団体は極めて厳格な医師幇助自死の審査基準を敷いています。団体内部で通称「グリーンライト(仮承認)」と呼ばれる許可を得るためには、以下の3要素を客観的な医療記録によって証明しなければなりません。
- 治癒の見込みがない器質的疾患:末期がん、ALS(筋萎縮性側索硬化症)などの神経難病、あるいは重度かつ不可逆的な機能障害であること。
- 耐え難い肉体的・精神的苦痛:現代の標準的な緩和医療を用いてもコントロール不可能な苦痛が持続していること。
- 十全な意思決定能力(判断能力):うつ病や一時的な精神的動揺による判断麻痺ではなく、自己の死の意味と結果を完全に認知していること。認知症が高度に進行した場合は適格性を失う。