保元・平治の乱の真相!骨肉の争いと平清盛が覇権を握った理由

保元・平治の乱の真相!骨肉の争いと平清盛が覇権を握った理由

保元・平治の乱の真相!骨肉の争いと平清盛が覇権を握った理由の全貌を丁寧に掘り下げてご紹介します。

保元の乱で勝利を収めた後白河陣営でしたが、平和は一瞬で崩れ去りました。原因は、政治の実権を握った少納言入道・信西の独善的な改革と、それに伴う急激な権力集中です。ここに信西と藤原信頼の確執の真相が隠されています。

信西は卓越した実務官僚であり、保元の新制を発布して荘園整理や記録所設置を断行しました。しかし、後白河上皇の最大の寵臣であり武力組織の長官(近衛大将)を熱望していた若手貴族・藤原信頼を「器にあらず」と冷酷に跳ね除けます。激怒した信頼は、信西排除のクーデターを画策し始めました。

一方、現場の武士階層でも不満の火種が燻っていました。それが源義朝と平清盛の対立経緯です。保元の乱における最大の武功者は、危険な夜襲を立案・実行し、自らの父・為義を泣く泣く斬首した源義朝でした。ところが、乱後の論功行賞において、義朝に下された恩賞は「左馬頭(従五位下相当)」に留まりました。

対する平清盛は、自らの子や親族を信西の子供たちと婚姻させ、経済的要衝である「播磨守」や「大宰大弐」といった実利の高い官職を次々と手に入れていきます。命懸けで戦った現場の義朝から見れば、信西と結託した清盛ばかりが甘い汁を吸っているように映ったのは想像に難くありません。

1159年12月、清盛が熊野詣のため手勢を引き連れて京を離れた隙を突いて動乱が勃発します。藤原信頼と源義朝は電撃的に挙兵し、後白河上皇と二条天皇の御所である三条東殿を急襲・放火しました。信西は山城国の田原へ逃亡するも、追手から逃れられないと悟り自害。首は都で晒される惨劇となりました。

政権奪取に成功し祝杯を挙げる信頼と義朝。しかし、ここからの平治の乱の勝敗と平清盛の逆転劇は、軍事・政治の両面において歴史上稀に見る見事な手腕でした。急報を受けた清盛は紀伊国から迅速に引き返し、六波羅の自邸に帰着。正面衝突を避けつつ、朝廷工作を密かに進めます。

清盛はクーデター軍に幽閉されていた二条天皇を女房(女官)の衣装を着せて脱出させ、六波羅へと行幸させました。さらに後白河上皇も仁和寺へと脱出に成功。天皇を手中に収めた清盛は瞬時に「官軍(正義)」の錦の御旗を獲得し、三条東殿の信頼と義朝を一転して「朝敵(反乱軍)」へと追い落としたのです。

大義名分を失った義朝軍は六波羅への総攻撃を試みるも、平重盛(清盛の嫡男)らの奮戦によって撃退され、京の市街戦で完全に瓦解。知略と政治力で圧倒した平清盛の完全勝利に終わりました。

中川 明日香
著者

中川 明日香

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。