この弔辞が人々の魂を揺さぶった最大の理由は、二人の間に存在した圧倒的な人間ドラマにあります。
福岡でジャズバーの店長などをしていた無名時代のタモリ(森田一義)さんの才能を最初に見出し、東京へ呼び寄せたのが赤塚不二夫さんでした。赤塚さんはタモリさんを自身のマンションに居候させ、自分は別の仕事部屋に泊まり込みながら、タモリさんに生活費や高級外車まで自由に使わせるという破格の支援を行いました。
赤塚さんは周囲に「こいつは絶対に面白くなる。俺の全財産を使ってでも世に出す」と語り、芸能界の表舞台へと押し上げたのです。血縁関係も利害関係も超えた無償の愛によって育てられたタモリさんにとって、赤塚さんは師匠であり、親であり、自らの芸の原点でした。
弔辞のクライマックスで語られた「私もあなたの数多くの作品の一つです」というフレーズは、自らの存在そのものが赤塚不二夫という不世出の天才によって生み出されたという、究極の感謝と謙虚さが込められた名言でした。