真言立川流を「邪悪な性愛教団」として後世に決定づけた歴史的文書が、康応元年(1389年)に高野山の学僧・宥快(ゆうかい)が著した『宝鏡鈔(ほうきょうしょう)』です。宥快はこの書物の中で、立川流を「仏道修行の皮をかぶった外道の邪曲」と激しく罵倒し、破邪顕正の名のもとに徹底的な排斥を呼びかけました。
しかし、宗教社会学や歴史学の視点からこの弾圧劇を分析すると、純粋な教義論争の背後隙間から、ドロドロとした「教団内の権力闘争」と「政治的覇権争い」が浮かび上がってきます。
当時、真言宗内部では、厳格な教理研究と戒律を重んじる高野山の「中院流(正統派)」と、後醍醐天皇の側近として強大な権勢を誇った文観(もんかん)に代表される新興勢力や傍流派閥が激しく対立していました。宥快ら高野山正統派にとって、勢力を急速に拡大する対立派閥を無力化し、高野山の宗教的権威を幕府に認めさせることは教団防衛上の至上命題だったのです。
そこで宥快は、当時京や鎌倉の周辺で流行していた民間呪術集団・異端集団(いわゆる「彼法(かのほう)」と呼ばれる怪しげな呪術者たち)の淫祠信仰と、仁寛の流れを汲む学問的な「立川流」を意図的に同一視しました。対立する学派に「髑髏本尊を崇める狂気の集団」という凶悪なレッテルを貼り付けることで、教団内から完全に排除することに成功したのです。これが、後世にまで続く立川流弾圧の決定的なからくりでした。