三国の覇権争いはなぜ決着がつかず、なぜ全王朝が相次いで自滅の道をたどったのでしょうか。歴史の分岐点を丹念に追うと、各王朝が抱えていた致命的な構造欠陥が浮かび上がります。
最初に退場したのは、もっとも領土が狭く人口も少なかった蜀漢でした。263年の蜀漢滅亡をもたらした主因は、建国の功臣である諸葛亮の死後における深刻な人材払底と、後継指導層の戦略的迷走です。諸葛亮の志を継いだ姜維は計11回に及ぶ過度な北伐を強行しましたが、益州一州の脆弱な経済基盤は疲弊の一途をたどりました。成都の宮廷では後主・劉禅が宦官の黄皓を重用して政治が腐敗。魏の魏軍を率いる鄧艾が険峻な陰平の山岳地帯を強行突破して成都平野へ奇襲をかけると、劉禅は戦意を喪失して降伏を選びました。国境警備に全軍を張り付け、後方の防衛線を欠いていた蜀の防衛体制は、一撃で崩壊したのです。
蜀を併呑した曹魏もまた、内部から白アリに食い破られるように崩壊しました。名君と称された2代皇帝・曹叡の早世後、幼帝を補佐する立場にあった名門軍閥の司馬懿が、249年の「高平陵の変」で政敵・曹爽一派を電撃的に粛清。実権は完全に司馬一族の手に落ちました。司馬懿の息子である司馬師、司馬昭は皇帝の廃立や暗殺をも辞さず、傀儡化した曹魏の皇帝一覧の最後を飾る元帝(曹奐)から、司馬昭の長男である司馬炎が禅譲を受けて265年に建国したのが「西晋」です。曹魏は他国に滅ぼされたのではなく、自らが重用した世族官僚のクーデターによって王朝の看板をすげ替えられました。
もっとも長く持ちこたえた孫呉の滅亡(280年)は、内部統制の完全な崩壊が引き金でした。名君であった初代・孫権も晩年は後継者選びを巡る「二宮の変」を引き起こし、多くの重臣を処刑・追放して国政を混乱させました。さらに末代皇帝となった孫皓は、正史『三国志』において残酷非道な君主として記録されており、諫言する臣下の顔の皮を剥ぐなどの暴政を重ね、人心は完全に離反。長江の要害を恃みにしていましたが、西晋が水陸両面から送り込んだ数十万の大軍を前に、組織的な抵抗すらできずに降伏へ追い込まれました。