「愛媛県庁所在地 松山市」という組み合わせに対し、疑問を抱く方は少なくありません。学校教育の場でも頻出のテーマですが、この不一致が生じた背景を紐解くには、明治4年(1871年)の廃藩置県と、その後に続いた目まぐるしい行政区画の統合プロセスを追う必要があります。
明治維新直後、旧伊予国(現在の愛媛県域)には松山藩、宇和島藩、大洲藩、今治藩など8つの小藩が分立していました。廃藩置県が断行された当初、松山藩を前身とする「松山県」が成立したものの、政府の統廃合方針によって伊予北部は「石鉄県(せきてつけん)」、南部は「神山県(かみやまけん)」へと再編されます。その後、1873年(明治6年)2月20日に両県が電撃的に合併し、現在の愛媛県が誕生しました。
県名が「松山県」ではなく「愛媛県」とされた最大の理由は、地域融和と古代神話への回帰にあります。『古事記』の国産み神話において、伊予国は「愛比売(えひめ=愛らしい美しい乙女)」と称されており、特定の一藩(松山藩)の名称を冠することを避け、全県民が納得できる歴史的・普遍的な象徴として神名が採用されたのです。
県庁の設置場所については、旧石鉄県の県庁が置かれていた今治や、旧神山県庁のあった宇和島との間で熾烈な議論が交わされました。しかし、伊予国の中央に位置し、平野が広く城下町として最大の人口と経済基盤を有していた松山城下が最も実務運営に適していると判断され、最終的に松山に県庁が置かれる運びとなりました。