明治維新を果たした日本が直面していた最大の外交課題は、幕末に欧米列強と結ばされた不平等条約(領事裁判権の承認、関税自主権の欠如)の改正でした。自国の法律で外国人を裁くことができず、自前の関税率すら自由に決められない屈辱的な条約体制を打破することは、近代国家としての独立を確立するための至上命題だったのです。
この難題を解決すべく立ち上がったのが、外務卿(のちの初代外務大臣)を務めた井上馨でした。井上は「日本が欧米と同等の文明国であることを証明しなければ、対等な条約改正など勝ち取れない」という強固な信念に基づき、いわゆる欧化政策を強力に推し進めました。その象徴的拠点として計画されたのが、外国の外交官や賓客を歓待するための常設迎賓館「鹿鳴館」です。
名称は中国の古典『詩経』の「鹿鳴の詩」にある「呦呦鹿鳴 raven 野の蒿を食ふ 我に嘉賓有り 鼓瑟鼓琴(ゆうゆうと鹿が鳴いて野の草を食べる。私のもとに素晴らしい客人が訪れ、琴を奏でてこれを迎える)」という一節に由来します。国家が総力を挙げて客人を歓待するという、極めて政治的な意味合いが込められていました。
建物の設計を託されたのは、工部大学校(現・東京大学工学部)で教鞭を執り、日本近代建築の父と称されるイギリス人建築家ジョサイア・コンドルです。コンドルはルネサンス様式を基調とした優美な煉瓦造2階建ての洋館を設計。1階には大食堂や談話室、図書室、ビリヤード室が配置され、2階には圧巻の広さを誇る舞踏室が設けられました。1883年(明治16年)11月28日、国内外の要人約1,200名を招いて盛大な落成披露会が催され、近代日本の社交史に刻まれる「鹿鳴館時代」が開幕したのです。