そもそも、なぜ明治時代の刑法起草者たちは、強制労働を伴う懲役とは別に「労働のない禁錮」という枠組みを用意したのでしょうか。その起源は、19世紀ヨーロッパの大陸法(特にドイツ刑法やフランス刑法)に存在した「名誉拘禁(Festungshaft)」の思想に由来します。
当時の法思想では、犯罪を「破廉恥罪(はれんちざい)」と「非破廉恥罪」に峻別していました。強盗、殺人、窃盗、詐欺のように、私利私欲や卑劣な動機から他者を害する罪を破廉恥罪とし、これには強制労働を科して人格の矯正を図るべきとされました。これに対し、内乱罪と政治犯の処遇に代表される国家秩序に対する叛逆や思想犯は、私利私欲ではなく個人の高潔な信念や政治信条に基づく行動であると考えられていました。
国家を揺るがす行為であっても、動機そのものに卑劣さがない以上、強制労働によって人格を辱めるべきではないという「政治的配慮と敬意」が、禁錮刑という制度を生み出した背景にあります。刑法第77条の内乱罪において、首謀者以外の参加者に対する法定刑に禁錮が規定されているのは、この明治期の思想的遺産です。
しかし昭和から平成へと時代が推移するにつれ、政治犯として禁錮刑が適用される事案はほぼ消滅しました。その結果、悪意を持たない過失犯(交通事故や業務上過失)を懲役囚と形式上区別するための方便としてのみ温存されることになり、当初の「政治犯の名誉拘禁」という思想的根拠は形骸化していった歴史的背景が存在します。