ドイツがなぜここまで極端で強硬な政策に舵を切ったのか。その分水嶺となったのが、1890年の名宰相オットー・フォン・ビスマルクの辞任です。
ビスマルクは、普仏戦争(1870〜71年)でフランスを孤立させ、ドイツ帝国の統一を成し遂げた後は「ドイツはこれ以上の領土を欲しない飽和国家である」と宣言していました。ロシアとの再保障条約を維持し、イギリスの植民地権益に深入りせず、ヨーロッパ内部のパワーバランスを精巧に保つ「ビスマルク体制」を敷くことで、フランスからの復讐を徹底的に防いでいたのです。
しかし、祖父のヴィルヘルム1世が世を去り、即位した若きヴィルヘルム2世は、老宰相の慎重策を「時代遅れの弱腰外交」と見下しました。当時の外相ベルンハルト・フォン・ビューローが帝国議会で演説した「われわれもまた、陽のあたる場所を要求する」という言葉は、後発帝国主義国家ドイツの貪欲な焦りを象徴しています。
ビスマルクは回顧録や周辺への私信の中で、ヴィルヘルム2世の資質について次のような痛烈な懸念を書き残していました。
「あの若い皇帝は、舵手(熟練の船員)を海へ放り出し、嵐の吹き荒れる大海原へ全速力で船を進めようとしている。彼の虚栄心と未熟さは、遠からず我がドイツをロシアとイギリスという二大列強の挟撃に追い込むことになるだろう」
ビスマルクの予言は恐ろしい精度で的中します。ヴィルヘルム2世は即位直後にロシアとの再保障条約の更新を拒絶。孤立したロシアはフランスと手を組み(露仏同盟)、さらにドイツの3B政策と大海軍建設(ティルピッツ計画)に激怒したイギリスまでもが宿敵だったフランス・ロシアと接近して「三国協商」を形成したのです。自ら撒いた種によって、ドイツは自国を完全に包囲される最悪の戦略的孤立へと追い込みました。