一方で、近年の過度なポリティカル・コレクトネスの議論のなかで、「高齢者の身体的特徴や耳の遠さを笑いものにしているのではないか」という皮相的な批判や誤解が一部で生じることがあります。しかし、これは志村喜劇の本質を見誤った解釈と言わざるを得ません。
家族社会学や喜劇論の観点からひとみ婆さんのコント構造を分析すると、志村さんが描いていたのは「弱者への嘲笑」とは正反対の構図でした。
コント内において、主導権を握り、理不尽なパワーを発揮して相手を翻弄するのは常にひとみ婆さんの側です。若い客や社会的立場の高い相手がどれほど正論を言っても、ひとみ婆さんのマイペースな論理によって無力化されてしまいます。つまり、社会的には「ケアされる側」と見なされがちな高齢者が、コントの空間では「場を完全に支配するトリックスター」として君臨しているのです。
人は誰しも年を取り、物忘れが増え、身体が思うように動かなくなっていきます。志村さんはその誰もが直面する「老い」という恐怖やタブーを、明るく愛らしい笑いに変換してみせました。老いることを惨めなものとして描くのではなく、どこか痛快で逞しい生のエネルギーとして描き出した点に、志村喜劇の真の革新性があります。
【プロの結論】志村喜劇の鑑賞法と時代を超えて響く人間愛の構造
志村けんさんが遺したおばあちゃんコントを鑑賞する際、私たちは単に「おかしな老人のギャグ」を見るのではなく、人間観察の極致に触れているという視点を持つことが重要です。
このコントを深く味わうための判断基準として、以下のポイントに着目することをおすすめします。
- 細部の所作を見逃さない:震える指先、腰の曲がり具合、歩幅の狭さなど、志村さんがどれほど徹底して高齢女性の身体性を研究し、肉体に憑依させていたかを確認すること。
- 相手役の「受けの美学」を感じる:加藤茶さんや研ナオコさん、柄本明さんといった名優たちが、志村さんのアドリブをいかに引き立て、ツッコミによってコントのリズムを完成させているかを観ること。
- おすすめできない見方:表層的な「失礼な態度」だけを切り取って現代の道徳基準で断罪しようとする姿勢。それでは志村さんが注ぎ込んだペーソス(哀愁)と温かな人間愛の核心を見失ってしまいます。