昭和の芸能界において、ドリフターズにまつわる最大の都市伝説が「メンバー間の深刻な不仲説」と「ギャラの極端な傾斜配分」でした。
結論から言えば、私生活でベタベタと群れる関係ではなかったものの、芸に対する敬意とビジネスパートナーとしての絆は極めて強固でした。いかりや長介さんは自著『だめだこりゃ』(新潮文庫)の中で、グループの給与体系について赤裸々に語っています。ドリフターズが渡辺プロダクションから独立した際、ネタ作りを一手に担い、事務所社長としての経営リスクと責任を負っていたいかりやさんの取り分が多く設定された時期があったのは事実です。この配分比率に対して、若手時代に加藤茶さんらが不満を漏らしたことも記録に残っています。
しかし、それは単なる金銭的私利私欲ではなく、「台本をすべて書き、スタッフと折衝し、コントが滑ったときの全責任を背負うリーダーの重圧」に対する代価でもありました。後年、加藤茶さんは対談で「長さんが全部の責任を背負ってくれていたから、僕らは舞台の上で何も考えずに暴れることができた。あの人がいなければドリフはとっくに潰れていた」と深く感謝を述べています。
現場でのピリピリとした緊張感は「仲が悪い」のではなく、「生放送で大怪我をさせないためのプロの規律」でした。回転舞台や天井からのタライ落としなど、数センチのズレが命取りになるセットの中で、いかりやさんが一切の妥協を許さず怒声を浴びせていた姿が、外部から不仲として誤認されたというのが実態です。