お蔦と主税の悲劇は、単なるフィクションではありません。泉鏡花自身の実話が色濃く投影されています。登場人物と実際の関係者を対照すると、鏡花が直面した過酷な現実が浮き彫りになります。
主税のモデルは鏡花自身、そしてお蔦のモデルは鏡花が深く愛した神楽坂の芸妓・伊藤すず(桃太郎)です。そして二人を引き裂く酒井教授のモデルこそ、鏡花が生涯崇拝し続けた文学の師・尾崎紅葉でした。
明治36年(1903年)、鏡花がすずと同棲していることを知った尾崎紅葉は、「師匠をとるか、女をとるか」と激怒し、即座の別離を命じました。当時、胃がんを患い余命幾ばくもなかった紅葉に対し、鏡花は泣く泣くすずを実家に帰す形を取り、師の怒りを鎮めました。このときの生々しい体験、罪悪感、悲哀のすべてが注ぎ込まれたのが『婦系図』なのです。