家紋「五三の桐」のルーツと格式!五七の桐との違いや誰でも使える真相

家紋「五三の桐」のルーツと格式!五七の桐との違いや誰でも使える真相

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ネット上のQ&Aサイトや掲示板で散見される「五三の桐は誰でも使える安物」「適当に選ばれた偽物の紋」という俗説には、半分の一面的な事実と、半分の大いなる誤解が混在しています。五三の桐が誰でも使える理由を紐解くには、江戸時代の文化政策と明治初期の社会激変という二つの歴史的転換点を直視しなければなりません。

第一の転換点は、江戸幕府による徹底した紋章統制です。徳川将軍家は自らの象徴である「葵紋(三つ葉葵)」の使用を厳禁とし、違反者を極刑に処すほどの厳しい禁令を敷きました。しかし、不思議なことに天皇家の紋章であった菊紋や桐紋に対しては、幕府は使用禁止令をほとんど発令しませんでした。この法規制の間隙を突いて生まれたのが通紋(つうもん)の歴史です。通紋とは、特定の血筋や家に限定されず、誰でも自由に用いてよい共有デザインの紋章を指します。

江戸の町民文化が爛熟するにつれ、粋(いき)を愛する商人や歌舞伎役者、遊女たちは、葵紋のように幕府から咎められるリスクがなく、それでいて最も美しく高貴な気品を漂わせる「五三の桐」をこぞって愛用しました。貸衣装屋の紋付羽織や着物にも五三の桐が染め抜かれ、「特定の家に縛られない無難でめでたい紋」としてのパブリックドメイン化が急速に進行したのです。

第二の決定的な契機が、1875年(明治8年)に明治政府が発令した「平民苗字必称義務令」です。これまで苗字や公的な家紋を持たなかった庶民階級が一斉に自らの家系を確立しなければならなくなった際、五三の桐が墓石に刻まれる理由が生まれました。当時の地方の寺院や石材店関係者の証言録や手記には、以下のような実態が克明に記録されています。

「先祖伝来の定紋を持たぬ百姓や職人が墓を建てる際、石屋から『特にこだわりがないなら、おめでたくて格好がつき、誰からも文句を言われない五三の桐にしておきなさい』と勧められ、そのまま刻んだ例が全国で無数に存在する」

つまり、代々の武家屋敷に伝わる血統としての五三桐もあれば、明治期に「新しい家の誇り」として前向きに選定された五三桐も混在しているというのが、現代の日本における冷徹な実態なのです。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。