後鳥羽上皇が隠岐の島へ配流された直接の原因は、承久3年(1221年)に勃発した承久の乱で鎌倉幕府に敗北したことにあります。しかし、なぜ朝廷の最高権力者が武力行使という極端な賭けに出るに至ったのか、その経緯には両者の間で長年蓄積された構造的な対立が存在していました。
もともと後鳥羽上皇は、壇ノ浦の戦いで平氏とともに三種の神器が水没した混乱のさなか、わずか4歳で「神器なき即位」を余儀なくされたコンプレックスを抱えていました。成長した上皇は、治天の君として強力な院政を敷き、経済基盤の回復と軍事組織「西面の武士」の創設に邁進します。幕府第3代将軍・源実朝とは和歌を通じて親密な関係を築き、実朝の後継に皇族を迎える構想を進めるなど、当初は朝幕融和を模索していました。
情勢が一変したのは建保7年(1219年)、源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺された事件です。源氏将軍の血筋が途絶えたことで鎌倉の実権は執権・北条氏へ完全に移行しました。幕府側が約束通りの皇族将軍の派遣を要請したのに対し、後鳥羽上皇は愛妾の荘園に対する地頭の設置停止を要求。幕府の実質的指導者であった北条義時がこれを断固拒絶したことで、決定的な亀裂が生じました。
全国の武士が自らの権威に従うと過信した上皇は、北条義時追討の院宣を発出。しかし、北条政子の名演説によって結束した幕府軍は、東海道・東山道・北陸道の三方から怒涛の勢いで上洛しました。大江広元らの進言を受けた19万とも号される幕府大軍の前に、朝廷軍はわずか1カ月あまりで全面崩壊。幕府と朝廷の対立は、武士政権の完全勝利という武力による結末を迎えました。