伊賀上野城を訪れた者が息を呑むのが、本丸西側にそびえる高さ約30メートルの高石垣です。一般的な近世城郭の石垣が10〜15メートル程度であることを考えると、そのスケールは異例中の異例と言えます。なぜこれほどの絶壁が必要だったのか、その理由は慶長16年(1611年)当時の緊迫した政治情勢にありました。
関ヶ原の戦いを経て伊賀・伊勢水雲出川以北の領主となった藤堂高虎は、徳川家康から極めて重い密命を受けます。それは「大坂城の豊臣秀頼を包囲し、いざ戦端が開かれた際には西からの進撃を食い止める最前線防衛拠点を構築せよ」というものでした。筒井定次が築いた旧城の大規模改修に着手した高虎は、大坂方面にあたる西側にのみ、堀底から垂直に近い角度で立ち上がる長大な直線的石垣を配置しました。打込接(うちこみはぎ)の技法で隙間なく積まれた石垣は、敵兵の登攀を物理的にも心理的にも完全に拒絶する威圧感を放っています。
高虎が設計した五層の大天守は、完成直前の慶長17年(1612年)の秋、猛烈な大風(台風)によって倒壊するという悲劇に見舞われました。直後に大坂の陣が勃発して豊臣家が滅亡したため、軍事的な役目を終えた天守が再建されることはありませんでした。つまり、現在見られる高石垣は、高虎が徳川の天下取りのために全精力を注ぎ込んだ「実戦のための最高傑作」の遺構なのです。