『風立ちぬ』のレコーディングは、松田聖子のキャリアにおいて最も過酷な試練の中で行われました。分刻みのスケジュールと連日のテレビ出演、コンサートが重なり、彼女の声帯は完全に限界を迎えていたのです。スタジオ入りした時点で、本来のクリアなハイトーンを出すことが困難なコンディションでした。
関係者の間にはレコーディング延期論も浮上しましたが、大滝詠一はスタジオで彼女の掠れた声を聴き、即座にアプローチを変更。「この少しハスキーで儚い声こそが、秋の別れ歌に完璧にマッチする」と見抜き、キーの設定や歌唱ニュアンスをその場で細かく微調整していきました。
極度の疲労とプレッシャーの中、松田聖子は類まれな集中力を発揮し、感情を絞り出すようにテイクを重ねました。結果としてレコードに刻まれたのは、初期の力強さとは異なる、陰影に富んだ繊細なボーカルでした。ピンチを芸術的な表現へと昇華させたこのレコーディング秘話は、彼女の天性の表現力を物語るエピソードとして今も語り継がれています。