人間国宝・一龍斎貞水が遺した立体怪談の衝撃と七代目襲名の行方

人間国宝・一龍斎貞水が遺した立体怪談の衝撃と七代目襲名の行方

人間国宝・一龍斎貞水が遺した立体怪談の衝撃と七代目襲名の行方にまつわる興味深い視点を分かりやすく発信ます。

1939年(昭和14年)、東京・湯島の商家に生まれた本名・浅野清太郎少年は、もともと役者を志していました。寄席の楽屋に出入りするなかで、昭和の名人として名高い五代目一龍斎貞丈に見初められ、1955年に学生服姿のまま初舞台を踏んだというエピソードは、演芸ファンの間でも伝説として語り継がれています。「一龍斎貞春」「貞正」を経て、1966年に真打昇進とともに六代目一龍斎貞水を襲名しました。

若き日の貞水が直面したのは、テレビの普及に伴う演芸場の観客減少と、講談という古典芸能そのものの衰退危機でした。釈台の前に座り、釈迦頭の張り扇で調子を取りながら淡々と軍記物や世話物を読むスタイルだけでは、目まぐるしく変化する大衆の娯楽欲求に太刀打ちできない――。そこで彼が編み出した起死回生の一手が、視覚と聴覚を総動員して観客を物語へ没入させる「立体怪談」でした。

当初、保守的な演芸界からは「講談を邪道に貶める見世物」「奇をてらった芝居紛がい」と激しい批判を浴びせられました。しかし、貞水は決して怯みませんでした。自著や当時の回想録において本人が語っていたのは、「伝統にあぐらをかいて客を眠らせるくらいなら、全身全霊で怖がらせ、劇場へ足を運ばせるのがプロの仕事だ」という揺るぎない覚悟でした。基本の読み口や張り扇の間の取り方が誰よりも端正であったからこそ、演出の飛び道具は単なるギミックを超え、芸術の域へと昇華していったのです。

その執念が結実したのが2002年(平成14年)の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定でした。古典芸能としての講談の社会的地位を一段引き上げ、2003年の紫綬褒章、2009年の旭日小双光章受章へと続く栄誉は、彼が単なる「怪談師」ではなく、日本語の語り芸を極限まで磨き上げた最高峰の表現者であることを証明しました。

山口 彩花
著者

山口 彩花

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。