なぜ「国境(くにざかい)」ではなく、あえて「国京」という漢字表記が用いられたのか。この疑問の真相を追究するには、発祥の地である広島県西部から南部の歴史的地理を検証する必要があります。
名字研究家や郷土史の編纂資料によると、主な発祥地は広島県呉市・東広島市(旧安芸国)の沿岸・島嶼部および街道筋とされています。この地域におけるルーツには、大きく分けて2つの有力な説が存在します。
1つ目は、「国境の守備・関所集落における佳字(縁起の良い文字)への改変説」です。中世から近世にかけて、安芸国と備後国の境、あるいは領内要衝の境界地点(クニザカイ)に配置された番人や在地武士が、境界を意味する「境」ではなく、繁栄や中心を意味する「京」を当てたという見解です。古来、地名や人名において忌み言葉や険しい印象を避けるため、音の近いめでたい漢字を割り振る「好字令」の精神が民間に根付いており、境界の防衛を担う一族が誇りを込めて「国京」を名乗った痕跡が伺えます。
2つ目は、「京都(京洛)との交易商人・船主集落の屋号説」です。瀬戸内海は古代から平安、中世、江戸時代に至るまで、畿内と西国を結ぶ海運の大動脈でした。安芸国の港町において、京都方面との物資輸送や特産品取引を取り仕切っていた豪商や廻船問屋が「国京屋」などの屋号を掲げており、1875年(明治8年)の平民苗字必称義務令の発布に伴い、その屋号をそのまま正式な名字として登録したという経緯です。
また、国京家に伝わる家紋を調査すると、西日本の旧家や武士層に広く普及している「丸に違い鷹の羽」や「丸に片喰(かたばみ)」、「丸に蔦」が多く見られます。これは在地豪族の末裔や、地域の名主層として定着していた家柄であることを静かに物語っています。