板垣退助の名を一躍世界的なものにしたのが、1882年(明治15年)4月6日に発生した「岐阜遭難事件」です。
遊説のため岐阜の中教院で熱弁を振るった後、玄関を出た板垣を、突如として短刀を持った青年・相原尚褧(あいはらなおぶみ)が襲撃しました。胸や右腕など数箇所を刺され、鮮血に染まりながら板垣が叫んだとされる言葉が、あの不朽の名言「板垣死すとも自由は死せず」です。
しかし、近年の歴史研究や当時の記録・同行者の証言を突き合わせると、現場のリアルな光景はより生々しく、メディアによる象徴化のプロセスが見えてきます。
当時現場に居合わせた内藤魯一が暴漢を取り押さえ、駆け寄った門弟たちに対して、板垣は傷口を押さえながら意識を保ち、「我が命は落としても、自由の精神は決して滅びない(板垣は死すとも、自由は亡びず)」という趣旨の言葉を呻くように絞り出したとされています。これが翌日の新聞各紙(東京横浜毎日新聞など)で「板垣死スヘシ、自由ハ死セサルヘシ」と劇的に報じられ、自由民権運動の熱狂的スローガンへと昇華していったのです。
幸いにも傷は深くなく一命を取り留めた板垣ですが、この事件以降、自由党は過酷な運命に直面します。政府の松方デフレ政策によって農村が困窮を極めると、自由党の急進派や下層農民が暴徒化し、福島事件(1882年)、加波山事件(1884年)、秩父事件(1884年)といった「激化事件」が全国で多発。板垣ら党幹部は過激化する末端組織を制御できなくなり、1884年10月、自由党はついに自ら解党の道を選ばざるを得なくなりました。
その後、大同団結運動を経て、第1回総選挙(1890年)の直前に旧自由党系勢力が再結集して「立憲自由党」を結成。翌1891年には再び原点の「自由党」へと改称し、議会第1党として初期議会で政府と激しい予算闘争を繰り広げていくことになります。