文治5年(1189年)閏4月30日、陸奥国平泉の衣川館(現在の岩手県西磐井郡平泉町周辺)において、弁慶の生涯はクライマックスを迎えます。奥州藤原氏の当主・藤原泰衡は、鎌倉の源頼朝からの軍事圧力と脅迫に屈し、父・秀衡の遺訓を破って義経の館を数百騎から数千騎の大軍で包囲・急襲しました。
義経に残されていた護衛は、弁慶を含めて十数騎余りにすぎませんでした。義経が館の持仏堂に籠もり、妻子の命を絶った上で自害するための時間を稼ぐため、弁慶はただ一人、館の表門に立ちはだかります。長刀を振り回し、寄せてくる泰衡の兵をなぎ倒し続けた弁慶に対し、接近戦を諦めた敵軍は一斉に弓矢の雨を浴びせました。
全身に針の山のごとく矢を射立てられながらも、弁慶は長刀を杖にして仁王立ちの姿勢を崩しませんでした。静止したまま動かない弁慶を不審に思った敵兵が馬を近づけて触れた瞬間、その巨体がどうと音を立てて倒れ、すでに息絶えていたことが判明します。これが、後世に語り継がれる「弁慶の立ち往生」です。
現代の法医学的見地からは、極度の疲労、脱水症状、多量出血の極限状態で即時性死後硬直(激しい即時硬直)が起きた可能性も指摘されていますが、本質はそこではありません。自らの命を完全に防壁へと変え、主君の尊厳ある最期を守り通したという自己犠牲の美学こそが、敗北の歴史を崇高な叙事詩へと塗り替えたのです。