歯科クリニックのカウンセリングルームで、多くの患者が真っ先に投げかけるのが「先生、実際のところ保険の入れ歯で十分ですよね?」という問いです。この疑問に正しく答えるには、日本の公的医療保険制度が何を保障しているのかを理解しなければなりません。
公的医療保険における補綴(ほてつ)治療の目的は、あくまで「最低限の健康維持と咀嚼機能の回復」に限定されています。見た目の自然さや、食事の繊細な舌触り、薄さによる装着感の軽さといった「生活の質(QOL)」に関わる要素は、給付の対象外です。
具体的な保険の入れ歯費用相場を見ると、3割負担の場合で部分入れ歯が約5,000円〜15,000円、総入れ歯(片顎)でも約10,000円〜18,000円程度に収まります(1割負担であればその3分の1)。数万円から数十万円単位の出費を覚悟しなければならない自費診療と比べれば、圧倒的な経済的負担の軽さです。この数字だけを見れば、「これで十分」と判断してしまうのも無理はありません。
しかし、東京都内の補綴専門医は臨床現場の実情を次のように明かします。
「保険の義歯は、いわば“標準的なギプス”のようなものです。骨折した腕を固定して治す役目は果たしますが、ギプスを着けたままピアノを弾いたり走ったりするのは難しい。入れ歯も同じで、保険の枠組みでは『柔らかいものをひと通り噛み砕ける』状態を目指して設計されているため、ステーキやたくあんをストレスなく食べることを期待すると大きなギャップが生じます」