鎌倉という特異な都市を理解する上で、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』の記述を避けて通ることはできません。鶴岡八幡宮の起源は、康平6年(1063年)、源頼義が奥州平定(前九年の役)の戦勝を感謝し、京都の石清水八幡宮を由比ヶ郷(現在の材木座・由比若宮)に勧請したことに遡ります。しかし、治承4年(1180年)、鎌倉に入った源頼朝が最初に着手した大事業こそが、この八幡宮を現在の地である「北山山麓」へと遷座させることでした。
頼朝はなぜ、由比ヶ浜の波打ち際に近かった社を、わざわざ山を背負うこの地へと移したのでしょうか。そこには、軍事防衛と宗教的求心力を高度に融合させた都市計画のグランドデザインがありました。
鎌倉は東・西・北の三方を急峻な山に囲まれ、南面のみが海に面した天然の要塞です。頼朝はその北の結界点である大臣山(だいじんやま)の麓に八幡宮を据え、そこから海に向かって完璧な直線を描く参道「若宮大路」を敷設しました。『吾妻鏡』寿永元年(1182年)の条には、頼朝自らが指揮を執り、北条義時ら御家人たちに土石を運ばせて参道中央の一段高い歩道「段葛(だんかずら)」を築かせた執念が記録されています。
歴史社会学の観点から分析すると、これは当時の武士団に向けた「心理的バウンダリー(境界線)」の明示に他なりません。朝廷の支配下にあった旧来の貴族社会から決別し、関東武士の血統的守護神である八幡神を頂点に据えることで、「我らの主君は頼朝であり、守護神は八幡大菩薩である」という絶対的なアイデンティティを刷り込んだのです。八幡宮の石段を見上げるとき、御家人たちは武家政権の絶対的な威光を視覚的・空間的に体感せざるを得ない構造になっていました。