世界的な大ベストセラー小説および映画『ダ・ヴィンチ・コード』によって、日本でも爆発的に広まったのが「イエスの右隣(向かって左)に座る人物は使徒ヨハネではなく、イエスの妻であったマグダラのマリアである」というセンセーショナルな言説です。イエスとヨハネの身体が形作る空間が女性原理を意味する「V」の字を描き、2人のシルエットを合わせると「M(マリア)」の文字が浮かび上がるというプロットは、多くの読者を熱狂させました。
確かに、描かれたヨハネの姿は髭がなく、肌は陶器のように滑らかで、胸元はしなやかであり、現代人の目にはどう見ても美少女や若い女性のように映ります。しかし、美術史学およびルネサンス期の図像学(イコノロジー)の学術的証拠に照らし合わせると、この仮説は明確に否定されます。
ルネサンス期のフィレンツェ絵画において、使徒ヨハネは「最も若く、イエスから最も愛された使徒」として、髭のない中性的な美青年(思春期の少年)として描くことが絶対的な視覚的お約束(コード)でした。ダ・ヴィンチの師匠であるアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房をはじめ、同時代の画家たちもヨハネを一貫してフェミニンな容貌で描いています。
さらに決定的な証拠として、レオナルド自身が残した膨大な直筆素描(デッサン)の手記が存在します。英国ロイヤル・コレクションが所蔵する素描集の注記には、この人物の顔の習作として「ジョヴァンニ(ヨハネのイタリア語名)の頭部」と明確に記されており、マグダラのマリアを意図して描いた形跡は一次資料のどこにも存在しません。ミステリー小説としてのエンターテインメント性と、厳密な美術史的事実は峻別して捉える必要があります。