天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都を震撼させた「本能寺の変」。当時、京都の南蛮寺(キリスト教会堂)にいた宣教師たちは、信長の宿所からわずか数百メートルの距離に身を置いていました。
ルイス・フロイス 本能寺の変 記録は、事件発生時の混沌とした空気感を秒単位で切り取っています。早朝、寺の周辺に突如響き渡った鉄砲の轟音、空を覆う黒煙、そして「信長様が討たれた」と叫びながら逃げ惑う町人たちの姿。宣教師オルガンティノ神父らから寄せられた報告をもとに、フロイスは光秀の軍勢が本能寺を包囲し、信長が弓矢や槍を取って自ら応戦した末、燃え盛る御殿の奥へと消えていった最期の様子を臨場感たっぷりに描写しています。
この混乱の中でひときわ目を引くのが、信長に仕えていたアフリカ出身の黒人侍に関する記述です。ルイス・フロイス 弥助 記述によると、巡察師ヴァリニャーノが連れてきた従者であったこの青年を、信長はひと目見て気に入り、自らの家臣として召し抱えました。信長は彼の肌が生まれつき黒いとは信じられず、服を脱がせて体を洗わせたという有名なエピソードもフロイスの筆によるものです。
本能寺の変当日、弥助は信長の嫡男・織田信忠が籠城していた二条御新造へ駆けつけ、刀を抜いて明智勢を相手に果敢に奮戦しました。信忠が自刃した後、捕縛された弥助について、光秀は「黒奴は動物であり、何も分からぬ者。日本人ではないから殺すには及ばない」と冷淡に言い放ち、南蛮寺へ引き渡したと記録されています。光秀のこの侮蔑的な発言と処遇の背景には、不必要な外国人殺傷を避けて対外関係の悪化を防ごうとする冷徹な計算が働いていたとも分析されています。