田岡狙撃後、鳴海清の足取りは完全に途絶えました。警察は全国に特別指名手配を敷き、顔写真を公開して情報提供を呼びかけましたが、目撃情報は錯綜。その一方で、山口組は全国規模で松田組系列の拠点や関係者を襲撃する激しい報復事件を連続発生させ、関西一帯は一触即発の戒厳状態に陥りました。
逃亡劇に終止符が打たれたのは、事件から約2か月が経過した1978年9月17日のことでした。神戸市北区の六甲山・瑞宝寺谷の山林で、ハイキング中の一般人によって著しく腐敗が進んだ男性の変死体が発見されます。
法医学鑑定と警察の捜査発表によると、遺体の特徴と死因の実態は想像を絶するものでした。
- 身体的損壊:激しい暴行によって全身骨折があり、歯は数本が折られ、生前にタバコの火を押し付けられた火傷痕が無数に確認された。
- 直接の死因:首を絞められたことによる窒息死(絞殺)、および全身打撲による外傷性ショック。
- 身元特定:遺体の指紋および生前の手術痕、所持品の照合により、行方をくらましていた鳴海清本人と断定。
発見時、遺体は衣服を剥ぎ取られ、草むらに投棄されてから推定で2〜3週間が経過していました。単なる逃亡中の事故や自殺ではなく、何者かによって長期間拘束され、激しい拷問を受けた末に殺害されたことは明白でした。