兵士たちを襲ったのは、敵対する過激派赤軍だけではありませんでした。マイナス40度に達するシベリアの酷寒、どこから撃たれるか分からないパルチザンゲリラとの戦い、そして「なぜ自分たちがここで戦っているのか分からない」という致命的な士気の低下でした。
従軍した兵士たちの日記や手記集(復員将兵の手記記録)には、当時の悲惨な現場が克明に綴られています。ある兵士は日記にこう記しています。
「同僚は耳や指先が壊疽し、黒く腐り落ちていく。朝起きると隣の寝床の者が凍死している。何のためにこの異国の荒野で命を捨てるのか、司令部の誰一人として納得のいく理由を説明してはくれない」
日本軍は近代的な防寒装備を著しく欠いており、多数の将兵が戦闘ではなく重度の凍傷や発疹チフスなどの感染症によって命を落としました。さらに、現地住民に対する過酷な治安維持活動はロシア人農民の激しい反感を買い、敵対するパルチザン勢力を自ら増やしていく悪循環に陥りました。現地住民との関係悪化は規律の弛緩を生み、後方での軍紀の乱れが報告書として陸軍内部に送られるなど、現場は完全に消耗し切っていたのです。