収容された遺体が搬送された遺体安置所の実態もまた、通常の社会通念を遥かに超えた試練の連続でした。体育館、グランディ・21(宮城県総合運動公園)、廃校となった武道場などが臨時安置所として指定されましたが、次々と運び込まれる棺や遺体袋に対し、あらゆる物資が決定的に不足していました。
とりわけ深刻だったのがドライアイスと棺の不足、そして燃料寸断による火葬場の機能停止です。停電した冷え切った体育館であっても、春先の気温上昇に伴い遺体の変化は避けられませんでした。日本財団や全国の葬祭業者からドライアイスが緊急輸送されたものの供給は追いつかず、遺族の悲痛な叫びが響く中で、やむを得ず「仮埋葬(土葬)」を選択し、後日掘り起こして火葬するという苦渋の決断を下した自治体もありました。
安置所では、医師や警察官が一体となって家族への引き渡し経緯を支えました。変わり果てた姿に対面する遺族の心理的衝撃を少しでも和らげるため、看護師やボランティア、納棺師たちが泥だらけになった顔を丁寧に拭い、髪を整え、衣服の泥を洗い落としました。ある遺族の手記にはこう綴られています。「絶望の中で安置所を何日も巡り、やっと見つけた夫の顔は綺麗に拭かれ、手には泥の落ちた結婚指輪が握らされていた。その心遣いにどれほど救われたか知れない」。過酷な環境下にあっても、命の尊厳を最後まで守り抜こうとする人々の献身が現場を支えていました。