なぜ、たった一つの人工島がこれほど細かく3つの自治体に引き裂かれることになったのでしょうか。その真相を紐解くには、昭和の高度経済成長期に起きた「東京湾13号埋立地の帰属争い」という歴史的背景に迫る必要があります。
江戸末期の「御台場」造成から始まった品川の誇り
もともと「お台場」という名前は、1853年のペリー来航(黒船来航)に危機感を抱いた江戸幕府が、江戸防衛のために品川沖に築いた砲台「品海砲台(御台場)」に由来します。幕末当時、防衛拠点の管理や漁業権の管轄は品川浦が深く関わっており、品川区側には「お台場のルーツは歴史的に品川の海である」という極めて強い愛着と自負が存在していました。
ゴミ戦争の犠牲となった江東区の正当な主張
一方、現在の臨海副都心の土地の大部分は、戦後の1960年代から1970年代にかけて造成された「第13号埋立地」です。この埋立事業において、東京都心部から排出される膨大なゴミや建設残土の運搬路となり、悪臭やハエの大量発生、激しい交通渋滞などの公害被害を真正面から引き受け続けたのが江東区でした。
東京都知事・美濃部亮吉の時代に激化した「東京ゴミ戦争」において、江東区は「都民全体のゴミを我が区が一手に引き受け、その犠牲の上に造成されたのが13号埋立地である」と主張。「埋立地全域が江東区に帰属するのは当然の権利である」として、一切の妥協を排して全島の編入を求めました。
都市機能の玄関口を主張する港区の利害
そこに加わったのが港区です。港区は芝浦港や日の出桟橋など、古くから東京港の港湾運航を支えてきた拠点であり、将来的に都心部と埋立地を結ぶ架橋(現在のレインボーブリッジ)の起点が港区芝浦に建設される計画でした。「交通網の直結性と将来の首都機能延伸を担うのは港区である」とし、埋立地北西部の帰属を強く要求したのです。
1982年・都知事調停による「痛み分け」の決着
3区による領有権争いは、固定資産税や法人住民税といった将来の巨額な税収も見越した激しい争奪戦となり、10年以上にわたって決着がつきませんでした。自治紛争調停委員会が設置され、最終的に1982年(昭和57年)10月、当時の鈴木俊一東京都知事の斡旋案を3区が受け入れる形でようやく決着をみました。
- 江東区への配分(約67%):ゴミ処分問題への歴史的負担を重く見て、青海・有明を中心とする島内の最大面積を獲得。
- 港区への配分(約24%):都心との接続性を考慮し、台場1〜2丁目の北西部地区を編入。
- 品川区への配分(約9%):品海砲台の歴史的経緯と漁業権の沿革を評価し、潮風公園周辺の東八潮地区を品川区領土として確定。
この1982年の合意こそが、現在私たちが目にする「3つの区にまたがるお台場」の直接的な成り立ちです。政治的・歴史的配慮の末に導き出された「行政の痛み分け」の境界線が、40年以上を経た現在もそのまま機能し続けています。