念仏にまつわる最大の謎であり、しばしば疑問視されるのが「なぜ、わずか六文字の言葉を唱えるだけで救われるのか」という点です。厳しい修行を何十年も積んだ高僧ならいざ知らず、市井の凡夫が口にするだけで極楽浄土へ行けるというのは、あまりに都合が良すぎる話に聞こえるかもしれません。
この問いの鍵を握るのが、阿弥陀如来の「第十八願(本願)」です。
仏教の伝説によれば、阿弥陀仏がまだ「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」という修行者だった時代、すべての生きとし生けるものを苦しみから救うため、四十八の誓願(約束)を立てました。その中の第十八番目に、極めて決定的な約束が記されています。
「私が仏になるとき、あらゆる人々が心から信じて私の国(極楽)に生まれたいと願い、わずか十回でも私の名を呼んだにもかかわらず往生できないのであれば、私は決して仏の座に就かない」
法蔵菩薩は五劫(気の遠くなるような途方もない時間)の思惟と修行の末に悟りを開き、阿弥陀如来となりました。つまり、「唱えた者を漏れなく救う力」を備えたからこそ阿弥陀仏として存在しているのであり、私たちが救われる根拠は私たち自身の善行ではなく、阿弥陀仏側の圧倒的なパワー(本願力)にあります。
ここで知っておくべきが、日本社会で最も誤解されている仏教用語の一つである「他力本願(たりきほんがん)」の真意です。現代では「人任せにする」「自分では努力しない」というネガティブな慣用句として使われがちですが、仏教本来の定義はまったく逆です。自分ひとりの矮小な力(自力)にしがみつく執着を捨て去り、「阿弥陀仏の大いなる慈悲の力(他力)に身を委ねて救われること」を意味します。
平安時代末期、戦乱や飢饉、疫病が頻発し、人々は「自力で修行して悟りを開くことなど不可能だ」という絶望に打ちひしがれていました。法然や親鸞が提唱した専修念仏(念仏一つに専念すること)は、文字も読めず厳しい戒律も守れない庶民層に凄まじい衝撃と希望を与えたのです。