後醍醐天皇が隠岐へ島流しとなった背景には、皇位継承をめぐる朝廷内部の深刻な対立と、武家政権である鎌倉幕府の支配構造に対する激しい反発が存在していました。当時の皇統は、後深草天皇の流れを汲む「持明院統」と、亀山天皇の流れを汲む「大覚寺統」が交互に皇位に就く「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と呼ばれるルールが幕府の調停によって運用されていました。しかし、1318年に31歳という異例の壮年で即位した後醍醐天皇(大覚寺統)は、幕府主導の皇統管理に強い不満を抱き、天皇親政による強固な朝廷主権の復活を渇望していたのです。
後醍醐天皇は即位直後から、記録荘園券契所を再興して訴訟の迅速化を図るなど、意欲的な政治改革に着手しました。その根底にあったのは、「徳政」の名のもとに君主自らが国を統治すべきという確固たる信念です。ところが、東国武士を基盤とする鎌倉幕府得宗家(北条氏)の介入は依然として重く、天皇親政の実現には幕府の解体が不可欠であるとの結論に至ります。
討幕の意志を固めた後醍醐天皇は、1324年に日野資朝や日野俊基ら側近を集めて無礼講と呼ばれる秘密会議を重ね、武士の糾合を画策しました。これが「正中の変」です。この計画は事前に幕府の出先機関である六波羅探題に漏洩し、側近が処罰される事態となりましたが、天皇本人は関与を否定して難を逃れました。しかし、天皇の倒幕への執念は衰えるどころか、より先鋭化していきます。
決定打となったのが、1331年(元弘元年)の「元弘の変」です。側近・吉田定房の密告によって二度目の倒幕計画が幕府に露見すると、後醍醐天皇は三種の神器を携えて京都の御所を電撃的に脱出。山城国の要害・笠置山(京都府笠置町)に籠城し、全国の武士に向けて挙兵を呼びかけました。河内国では楠木正成が呼応して赤坂城で蜂起するなど畿内は騒乱に包まれますが、幕府軍の大軍の前に笠置山はわずか1カ月で陥落。山中を逃走した天皇は幕府方に捕縛され、六波羅探題へと連行されることになったのです。
謀反の首謀者でありながら死刑を免れた背景には、当時の「天皇の身体に対する不可侵性」という宗教的・伝統的タブーがありました。どれほど敵対しようとも、武家が天皇を現世で処刑することは正当性を根底から失う危険を孕んでいたのです。そこで幕府は、持明院統の光厳天皇を新たに擁立したうえで、後醍醐天皇の帝位を剥奪し、かつて承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇を配流した前例に倣い、1332年3月に絶海の孤島・隠岐への流刑を断行しました。