天正12年4月9日(1584年5月18日)、作戦は最悪の形で瓦解します。別動隊(総勢約2万)の進軍は、家康方の極めて高度な偵察網に完全に筒抜けとなっていました。秀吉の甥・三好秀次(羽柴秀次)率いる部隊が白山林で徳川軍の奇襲を受けて壊滅すると、家康本隊が急速に長久手へと展開します。
異変に気づいた恒興と森長可は軍を反転させ、長久手の地で徳川軍と激突しました。森長可が眉間を銃撃されて討死すると、池田軍の戦列は崩壊。恒興は愛槍を振るって自ら奮戦したものの、退路を断たれ、徳川方の武将・永井直勝の手によって討ち取られました。享年49。
同時に嫡男の池田元助も討死し、池田本家は一瞬にして当主と跡継ぎを失う壊滅的打撃を受けました。討死した直接の要因は、別動隊同士の通信網の寸断と、家康による夜間急行軍という想定外の戦術機動力に対応しきれなかった情報戦の敗北にありました。