山本五十六がこれほどまでに深い人間理解に到達した背景には、彼の特異な経歴と、時代の荒波に揉まれ続けた苦闘の歴史があります。
1884年(明治17年)、新潟県長岡市の旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれた彼は、父親が56歳の時の子であったことから「五十六」と名付けられました。後に名門・山本家を継ぎ、海軍兵学校を32期生として卒業。日露戦争の日本海海戦では左手の人差し指と中指を失う重傷を負いながらも、軍人としてのキャリアを歩み始めます。
彼の視座を決定づけたのは、アメリカ留学(ハーバード大学)および二度にわたる米国駐在武官の経験でした。デトロイトの自動車工場やテキサスの油田地帯を視察した山本は、アメリカの圧倒的な工業生産力と物量を直視し、「アメリカと戦を交えることは絶対に避けるべきだ」という確固たる信念を抱くに至ります。
海軍次官時代には、米英との全面対決を招く「日独伊三国軍事同盟」の締結に命がけで反対。右翼勢力や陸軍強硬派から暗殺予告を突きつけられながらも、非戦の立場を貫き通しました。しかし、情勢の激化に伴い、1939年(昭和14年)には海軍省を離れ、連合艦隊司令長官に就任します。
「戦うべきではない」と知り尽くしていた相手と、国家の命運を背負って戦わざるを得なかった境遇。その極限の重圧の中で、若い兵士たちを無駄死にさせず、一人ひとりの能力を極限まで引き出すために辿り着いたのが、「人間を恐怖や階級で縛るのではなく、尊厳と信頼によって動かす」という指導論でした。