「名前に九とあるのに、なぜ現実は7県なのか」という最大の疑問を解く鍵は、古代の律令制度における旧国名(令制国)の数にあります。
古代日本において、五畿七道のひとつである「西海道(さいかいどう)」には、以下の9つの国が設置されていました。
- 筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご):現在の福岡県
- 肥前(ひぜん):現在の佐賀県および長崎県本土
- 肥後(ひご):現在の熊本県
- 豊前(ぶぜん):現在の福岡県東部および大分県北部
- 豊後(ぶんご):現在の大分県中南部
- 日向(ひゅうが):現在の宮崎県および鹿児島県の一部
- 薩摩(さつま)・大隅(おおすみ):現在の鹿児島県本土および諸島部
これら9つの国が存在したことから、この地域一帯は「九州」と呼ばれるようになりました。なお、西海道には島しょ部として「壱岐国」「対馬国」も含まれていましたが、本土の主要な国が9つであったため、通称として「九州」が定着しました。
転機が訪れたのは明治維新です。1871年(明治4年)の廃藩置県が断行された当初、九州地方には江戸時代の藩をそのまま引き継ぐ形で短期間に多数の県(一時は30県以上)が乱立しました。その後、明治政府は統治効率と徴税機構を最適化するため、段階的な大統合を推進します。
この過程で激動のドラマがありました。たとえば佐賀県は、一度は「伊万里県」を経て佐賀県となったものの、1874年の佐賀の乱などを経て三潴(みずま)県や長崎県へと強制的に編入・併合されました。しかし、激しい分県運動と地元住民の粘り強い陳情が実を結び、1883年(明治16年)に長崎県から正式に独立・再設置され、現在の佐賀県が復活しました。
同様に、宮崎県も一時的に鹿児島県へ編入された後に再置されるなど、複雑な境界線の見直しを経て、最終的に現在の7県体制へと集約されました。「9つの国」が行政効率化の過程でまとめられ、「7つの近代自治体」へと姿を変えたことこそが、九州が7県である決定的な真相です。