「麻生太郎がかつてオリンピアンだった」という話は、都市伝説の類ではありません。報道各社の公式記録および日本オリンピック委員会(JOC)の公式名簿に、1976年モントリオールオリンピックの射撃日本代表としてその名が刻まれています。
麻生氏が本格的に銃を握ったのは、学習院大学在学中のことでした。同大学に「射撃部(クレー射撃)」を自ら創設し、学業と並行して泥臭い反復練習に没頭。当時のクレー射撃界は実業家や旧華族などの愛好家も多い環境でしたが、麻生氏は単なるレジャーの枠を飛び越え、年間数万発の射撃訓練を自身に課すストイックなアスリート生活を送っていました。
当時の特番インタビューや自著『とてつもない日本』などで語られた手記によると、麻生氏は「動く標的を極限の集中力で撃ち落とす感覚は、日々の雑音を完全に遮断する精神修養だった」と振り返っています。若き日の麻生氏は、政界入りの前に一人の求道的なスポーツマンとして青春のすべてを射撃に捧げていたのです。