この前人未到の巨大構造物の設計を任されたのが、「耐震構造の父」と称された早稲田大学名誉教授の内藤多仲(ないとう・たちゅう)博士です。歌舞伎座や大同生命ビルなどの耐震設計を手掛け、名古屋テレビ塔や通天閣を設計した鉄塔構造の第一人者でもありました。内藤博士は日建設計の日音寺主計技師長らとともに設計チームを編成し、前例のない巨大鉄塔の力学計算に挑みました。
当時はスーパーコンピュータはおろか、電子計算機すら普及していない時代です。数万カ所に及ぶ接合部の応力計算、風圧荷重、地震荷重の割り出しは、すべて計算尺と膨大な手計算によって行われました。内藤博士が残した回顧録や自著『建築の骨組』などの記録によると、設計図面は数千枚に達し、昼夜を分かたず鉛筆を走らせる日々が続いたと記されています。耐震基準としては、関東大震災クラスの巨大地震(マグニチュード8級)の揺れに耐えうる震度0.9、風速に関しては秒速90mという観測史上類を見ない猛烈なスーパー台風を想定した安全係数が設定されました。
1957年6月に着工された建設工事は、竹中工務店が施工を担当し、わずか1年半後の1958年12月に竣工という驚異的なスピードで進められました。現場で主役となったのは、全国から集められた約500人を超える熟練の鳶職人たちです。命綱1本を頼りに、風吹きすさぶ地上数百メートルの鉄骨上を飛び交い、真っ赤に熱せられたリベットを空中で受け渡しながら塔を組み上げていきました。
また、塔体上部に使用された鉄材には、朝鮮戦争で使われたアメリカ軍の戦車約90台分のスクラップ鋼材が再利用されたという逸話も残されています。当時の日本は良質な高張力鋼の供給が限られており、特殊装甲に使われていた粘り強く強靭なミリタリーグレードの廃鋼材が、電波塔の頂部アンテナを支える部材として見事に転生を遂げたのです。戦後日本の復興エネルギーと職人魂、そして内藤博士の妥協なき計算美学が結晶化したモニュメントといえます。