ネット上の言論やSNSでは、しばしば「女王は政治に対して完全な無力だったのか」あるいは逆に「裏で巨大な政治工作を行っていたのではないか」という極端な二者択一の議論が散見されます。しかし、英国憲政史の現場データが示す実態は、そのどちらでもありません。
イギリスの憲政学者ウォルター・バジョットが説いた通り、立憲君主の権利は「相談を受ける権利、励ます権利、警告する権利」の3つに集約されます。エリザベス女王は70年間の在位中に、ウィンストン・チャーチルからリズ・トラスに至るまで歴代15人の英国首相と毎週火曜日の夕刻に「秘密謁見」を行いました。この謁見には書記官も同席せず、いかなる公式録音・記録も残されません。
歴代首相の手記によると、トニー・ブレア元首相は「国家機密を外部に漏らす心配なく、純粋に客観的な助言を求められる地球上で唯一の人物だった」と述懐し、デーヴィッド・キャメロン元首相も「女王の鋭い質問は、閣僚のいかなる追及よりも緊張を強いられた」と証言しています。女王は政治的「決定権(Power)」を行使しない代わりに、比類なき経験と中立性に基づく「影響力(Influence)」を極限まで高めていたのが制度の真実です。