長年信じられてきた「山上の寺院群がことごとく炎上し、山全体が火の海となった」というイメージは、現代の歴史学と考古学の進展によって大きく塗り替えられています。延暦寺焼き討ちの真相を探る上で最大の転換点となったのが、滋賀県教育委員会や大津市歴史博物館を中心とする継続的な発掘調査の現場データです。
比叡山の中心地である東塔エリア、とりわけ比叡山延暦寺の根本中堂や大講堂周辺、西塔・横川の各主要拠点の発掘調査において、織田信長が攻め入った16世紀後半の分厚い焼土層や炭化木材がほとんど確認されていません。もし伝承通り山上の巨大建造物群が一斉に焼き払われていれば、土層には明確な灰と炭の堆積層が残るはずです。しかし、根本中堂周辺で見つかる大規模な火災痕は、信長の焼き討ちから約70年前、明応8年(1499年)に室町幕府管領の細川政元が比叡山を焼き討ちした際のものばかりであることが科学分析で判明しています。
では、延暦寺焼き討ちにおける被害の実態とは具体的にどのようなものだったのか。発掘調査と当時の一次史料が浮き彫りにしたのは、主戦場が山頂ではなく「山麓の坂本(現・滋賀県大津市坂本)」であったという事実です。琵琶湖畔に位置する坂本は、比叡山の莫大な物資が集積し、僧侶たちの生活拠点である「里坊」や商業施設、日吉大社が広がる一大都市でした。浅井・朝倉軍の補給を支えていたのもこの坂本の流通網です。
信長軍が実際に包囲し、徹底的に焼き払ったのはこの山麓の都市・坂本とその周辺の関所、出城化していた寺院施設でした。信長軍は湖上を封鎖し、坂本を焼き討ちすることで比叡山の経済的・軍事的生命線を断ち切ったのです。山上の主要堂塔は威嚇射撃や局所的な焼き討ちには見舞われたものの、山全体が灰燼に帰したという通説は、文字通りの事実とはかけ離れていたことが発掘調査の新事実によって立証されています。