全国47都道府県を見渡すと、北海道(札幌市)や神奈川県(横浜市)、愛知県(名古屋市)のように、県名と県庁所在地の都市名が異なる自治体が18存在します。そのなかでも茨城県が水戸市を県都としている理由には、日本近代史を揺るがした激動のドラマが深く関わっています。
水戸徳川家歴史まとめ|御三家の威光と幕末の激動
水戸は江戸時代、尾張・紀州と並ぶ「徳川御三家」のひとつ、水戸徳川家が治める水戸藩35万石の城下町として栄華を極めました。第2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)による『大日本史』編纂事業を端緒として発展した「水戸学」は、尊王攘夷思想の理論的支柱となり、幕末の志士たちに決定的な影響を与えます。
第9代藩主・徳川斉昭は藩政改革と海防強化を推進し、その実子である徳川慶喜は江戸幕府最後の第15代将軍となりました。しかし幕末期、水戸藩内では激派の「天狗党」と保守派の「諸生党」による熾烈な内部抗争が勃発します。双方の報復合戦によって明治維新を迎える頃には藩内の優秀な人材の多くが命を落とし、政治的な指導力を大きく消耗する悲運に見舞われました。
廃藩置県と「県名と県庁所在地が違う理由」の決定打
1871年(明治4年)7月、明治新政府は中央集権体制を確立するため廃藩置県を断行します。当初、水戸藩の領域はそのまま「水戸県」となりました。しかし、全国に300以上乱立した府県を統合する同年11月の第1次府県統合において、水戸県・松川県・宍戸県・笠間県などが合流し、新設された県の名称に選ばれたのは「水戸」ではなく茨城県でした。
なぜ歴史と知名度で圧倒的だった「水戸県」の名が消えたのか。公文書や歴史研究において、主に2つの構造的要因が指摘されています。
第1に、明治新政府による旧藩の影響力排除です。戊辰戦争で官軍に対抗した東北諸藩(盛岡藩→岩手県、仙台藩→宮城県、会津藩→福島県など)と同様、明治政府は封建領主の権威や旧領民の忠誠心を断ち切るため、旧城下町の名をあえて県名に採用せず、郡名(茨城郡)を採用する方針をとりました。水戸藩は官軍側に属したものの、御三家筆頭格としての誇りや水戸学の過激な尊皇派が新政府の火種になることを恐れられ、政治的象徴としての「水戸」の看板が外されたと分析されています。
第2に、県庁の仮設置と郡名採用の実務的経緯です。統合当初、県庁は旧水戸城三の丸に置かれつつも、管轄エリアの中心部であった茨城郡石岡(現・石岡市)への移転構想が存在したため、広域名称である「茨城郡」から県名が採られました。その後、1875年(明治8年)に県南・県西を管轄していた「新治県」の利根川以北が編入され、現在の茨城県の輪郭が完成した際も、県庁は中枢機能が整っていた水戸に据え置かれ、県名のみ「茨城県」として継承されたのです。