現代の感覚からすれば「公共の場所に痰を吐くための容器が堂々と並んでいる」という光景そのものに強い違和感を抱くかもしれません。しかし、当時は道端や電車の床に直接唾を吐き捨てる行為がごく日常的に横行していた時代でした。
当時の様子を物語る一次資料や文学作品、回顧録には、生々しい証言が数多く残されています。昭和初期の鉄道省関係者の手記には「朝のラッシュが過ぎた後のプラットホームや待合室の床は、吐き捨てられた痰と煙草の吸殻で足の踏み場もないほどであった」と記されており、駅員が日常的にデッキブラシと石炭灰を使って床を清掃しなければならない過酷な労働実態が報告されています。
こうした野放図な習慣に終止符を打つべく介入したのが国家の公衆衛生政策です。当時、日本において結核は「亡国病」「国民病」と恐れられ、年間10万人以上の命を奪う最大の死因でした。結核菌は患者の喀痰が乾燥し、塵埃(ほこり)とともに大気中へ舞い上がること(塵埃感染)で猛威を振るいます。そのため、街頭での唾吐き禁止の経緯と痰の適切な封じ込めは、国家存亡をかけた最重要課題となったのです。
1919年(大正8年)に制定され、戦後の1951年(昭和26年)に抜本改正された結核予防法の歴史のなかで、公共交通機関や集客施設に対する痰壺の設置は法定義務として組み込まれました。駅のプラットホームの柱ごと、待合室の四隅、長距離列車のデッキ、そして病院や学校の廊下に至るまで「喀痰は必ず痰壺へ」という啓発看板とともに設置され、昭和の風景として定着していったのです。