昭和18年(1943年)以降、戦況の悪化に焦燥を募らせていた旧日本海軍艦政本部は、原子核分裂の巨大なエネルギーを兵器転用する可能性に望みを託しました。海軍技術研究所から白羽の矢が立てられたのが、アインシュタインやラザフォードら世界的権威の流れを汲み、アジアで初めて原子核人工破壊の実験に成功していた京都帝国大学物理学教授・荒勝文策でした。
海軍は研究費として当時としては破格の約60万円(現在の貨幣価値で数十億円規模)を投じ、昭和19年(1944年)には「B研究(電波兵器)」と並ぶ最優先機密として「F研究」を正式発足させました。研究室には若き研究者や学徒動員された学生たちが集められ、ウラン235の理論計算、臨界量の算出、核分裂断面積の測定といった基礎物理実験が昼夜を分かたず進められたのです。
当時の研究日誌や手記を紐解くと、荒勝教授らは軍部からの強烈な「早期実戦配備」への重圧を受けながらも、純粋な物理現象の探求と巨大兵器の現実性との狭間で葛藤していた様子が克明に刻まれています。