広島大学という地方最高峰の国立大工学部を卒業しながら、なぜ田中さんは安定したゼネコンや設計事務所への就職を選ばず、不安定なお笑い芸人の道へ進んだのでしょうか。
当時の回想録や取材資料によると、大学時代に相方である山根良顕さんと出会い、学内のお笑いサークルで活動する中で「人を笑わせる快感」に強く取り憑かれていったことが契機となっています。一方で、周囲の優秀な同級生たちが徹夜で緻密な図面を引き、突出したデザインセンスを発揮する姿を目の当たりにして、「自分は一握りの天才建築家にはなれないかもしれない」という健全な挫折感を味わったことも率直に明かされています。
大学卒業時、息子の将来を心配する母親からの猛反対を受けながらも上京。下積み時代は極貧生活を送り、やがて独特の風貌とキモキャラで大ブレイクを果たしました。実家のリフォームや建て替えに関しても、自身の建築知識を押し付けるのではなく、高齢になった両親の生活動線や段差解消、安全性(バリアフリー化)を最優先に考えたアドバイスを送っていたエピソードは、ファンの間でも温かい美談として語り継がれています。