「ステンレススチールは磁石につかないはずなのに、家のステンレス製ボウルや水切りカゴには磁石がガッチリくっつく。これは安物の偽物をつかまされたのではないか?」
インターネットの知恵袋やSNS上では、定期的にこのような悲鳴や疑問の声が投稿されます。住宅設備メーカーや調理器具メーカーのカスタマーサポート窓口にも、毎月のように同様の問い合わせが寄せられているのが現状です。しかし、結論から申し上げれば、「磁石がつくからといって偽物のステンレスである」と断定するのは明らかな誤解です。
この現象の鍵を握っているのが、ステンレス磁石つく理由を解明する金属組織(結晶構造)の違いです。ステンレス鋼は、鉄にクロム(Cr)を10.5%以上添加して錆びにくくした合金の総称ですが、金属組織によって大きく3つの代表的な系統に分かれます。
1つ目は「フェライト系ステンレス(代表例:SUS430)」です。鉄にクロムを添加したもので、結晶構造は体心立方格子(BCC)を取ります。この系統は最初から磁石に強く吸着します。家庭用包丁や厨房機器、洗濯機のドラムなどに広く使われており、磁石がつくのは素材の正常な仕様です。
2つ目は「マルテンサイト系ステンレス(代表例:SUS410)」です。硬度を高めるために炭素を含ませて焼入れ加工を施したもので、医療用メスや高級刃物、ハサミなどに使われます。こちらも強い磁性を持ち、磁石にしっかりとくっつきます。
そして混乱の元凶となっているのが、3つ目の「オーステナイト系ステンレス(代表例:SUS304)」です。鉄にクロム(約18%)とニッケル(約8%)を配合したもので、結晶構造は面心立方格子(FCC)を形成します。この結晶配列になると、驚くべきことに強磁性体であるはずの鉄とニッケルが入っているにもかかわらず、常温では磁石に全くつかない非磁性を示します。高級洋食器やシンク、化学プラントなどで多用される素材です。
では、なぜ非磁性であるはずのSUS304製品に磁石がくっつく事態が発生するのでしょうか。その最大の要因は、製造工程における「冷間加工(プレス成形や曲げ加工)」にあります。
金属材料工学において「加工誘起マルテンサイト変態」と呼ばれる現象が存在します。非磁性のオーステナイト組織に対して、プレス機で強い圧力をかけて引き延ばしたり、急激に折り曲げたりすると、結晶格子に強烈な歪みが生じます。すると、金属組織の一部が非磁性のオーステナイトから、強磁性を持つマルテンサイトへと相変態してしまうのです。
実際に、深絞り成形で作られたステンレス製ボウルの底面(平らであまり引き伸ばされていない部分)に磁石を当ててもつきませんが、激しく絞り加工が施された「側面」や「フチの巻き込み部分」に磁石を近づけると、カチッと心地よく吸着する現象が確認できます。これは粗悪な素材を使っている証拠ではなく、むしろ高度なプレス成形加工を経て製品の形に仕上げられた物理的な痕跡に他なりません。