織田信長の死因は自害か焼死か?遺体なき本能寺の変と歴史の真相

織田信長の死因は自害か焼死か?遺体なき本能寺の変と歴史の真相

織田信長の死因は自害か焼死か?遺体なき本能寺の変と歴史の真相について押さえておきたい 事実を分かりやすい構成で解説いたします。

織田信長が最期を迎えた際、その命を奪った直接の死因は何だったのでしょうか。軍記物や後世の創作では「燃え盛る炎の中で舞を舞い、切腹した」といった劇的な描写が定着していますが、当時の同時代史料を読み解くと、より現実的で凄惨な戦闘の推移が浮かび上がります。

一次史料『信長公記』が語る奥の間での自刃

信長の旧臣である太田牛一が著した『信長公記』は、本能寺の変における最も信頼性の高い記録と評価されています。同書によると、光秀軍約1万3,000人に包囲された信長の手勢はわずか百数十人足らずでした。信長は当初、弓を手にとって応戦し、弦が切れると次は槍を振るって敵兵と刃を交えましたが、肘に槍傷を負って退却を余儀なくされます。

殿中にいた女性たちへ「女どもは苦しからず、急ぎ罷り出よ」と退去を命じた後、信長は奥の間に籠もり、内側から鍵をかけて火を放ち、「御腹を召され候(切腹された)」と記録されています。この記述に従えば、信長は敵の手にかかることを拒み、武士としての誇りを保ったまま自害を選んだことになります。

フロイス『日本史』に見る銃創と火災

一方、当時日本に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが本国へ送った報告書を基にする『フロイス日本史』にも、生々しい最期の様子が記録されています。フロイスの記述によると、信長は背中に銃弾を受け、傷口を洗い流そうと奥へ入った後に消息を絶ったとされています。

これら複数の史料を総合すると、信長は戦闘中に弓矢や鉄砲によって重傷を負い、これ以上の抗戦が不可能と判断した段階で奥へ退去。切腹を試みたと同時に建物全体に火が回り、「失血」「自刃による致命傷」「一酸化炭素中毒」「焼死」が極めて短い時間の中で重複して起きたと考えられます。医学的・法医学的な見地からは、切腹による失血死が先か、煙による窒息死が先かという微細な前後関係は残るものの、敵に討ち取られる前に自らの意志で命を絶ち、炎に包まれたというプロセスが歴史の実相に最も近いと結論づけられます。

松本 悠斗
著者

松本 悠斗

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。