偉大な治績を誇る一方で、歴史愛好家やネット上で持統天皇が怖いと言われる理由の筆頭に挙げられるのが、天武天皇の崩御直後に起きた「大津皇子の変」です。天武天皇が686年9月に息を引き取ると、わずか1か月後の10月2日、持統天皇は大津皇子を謀反の密告があったとして電撃的に捕縛。翌日には大和国の訳語田(おさだ)にある自邸にて、弱冠24歳の大津皇子を自害へと追い込みました。
この大津皇子処刑の真相と理由には、冷酷なまでに計算された皇位継承戦略が存在していました。『日本書紀』の記述によれば、大津皇子は「容貌魁偉にして、学問を好み、文筆を能くし、武勇にも優れていた」と絶賛される屈指のカリスマでした。対照的に、持統天皇の実子である草壁皇子は病弱で気弱な性格だったと伝えられています。天武天皇の治世下で皇太子に立てられていたのは草壁でしたが、朝廷の豪族や官人たちの人気は大津皇子に集まっており、天武という巨大な重石が外れた瞬間、権力バランスが崩れる危機を鸕野讚良は本能的に察知していました。
謀反の密告者とされたのは、大津の親友であった川島皇子(天智天皇の皇子)でした。大津が本当に武力蜂起を計画していたのか、それとも持統側が仕掛けた周到な罠(冤罪)だったのかは現代の歴史学界でも議論が分かれています。しかし、発覚から死刑執行までわずか24時間余りという異常なスピード感は、裁判や徹底捜査を意図的に排除し、ライバルの命を確実に奪うための政治的粛清であったことを如実に物語っています。最愛の息子・草壁の地位を脅かす脅威を、一切の躊躇なく摘み取ったこの決断こそが、後世に「冷酷無比な母」「凄腕の権力者」という強烈な残影を刻み込んだのです。