日本の財界史において、堤清二と異母弟・堤義明の対立ほどドラマチックに語り継がれる兄弟の確執はありません。この確執の根源を辿ると、西武グループの創業者であり、衆議院議長まで上り詰めた父・堤康次郎の特異な女性遍歴と、極めて複雑な家系図に行き着きます。
長男が早世したため、実質的な跡取りと見なされていたのは正妻格であった操の長男・清二でした。東京大学経済学部に進学した清二は、終戦直後の混乱期に日本共産党に傾倒し、党の活動に身を投じます。父・康次郎が象徴する拝金主義や資本家階級への強烈な反逆心からでしたが、やがて党内の凄惨な内ゲバや査問事件に幻滅して離脱。父から勘当同然の扱いを受け、結核を患って生死の境をさまようことになりました。
この空白の間に台頭したのが、康次郎の寵愛を受けた愛人・青山その子の長男である堤義明でした。早稲田大学で観光経営を学び、父の帝王学を愚直に受け継いだ義明は、父の意のままに動く忠実な後継者として信を勝ち取ります。1964年4月、康次郎が急逝した際に下された遺言は残酷なものでした。本流である国土計画(プリンスホテル)や西武鉄道の全権は義明に託され、清二に与えられたのは、当時「池袋のガラクタ屋」と揶揄された赤字続きの西武百貨店一店舗のみだったのです。
報道各社の取材記録や当時の役員たちの証言によると、兄弟が直接言葉を交わす機会は極めて稀であり、グループの定例連絡会ですら互いに目線を合わせない冷え切った空気が支配していました。「兄は左翼かぶれの文学青年、商売の何たるかも分かっていない」と見下す義明に対し、清二は「弟は土地を買い占めてレールを敷くだけの金儲けマシーンだ」と反発。清二にとって、池袋の百貨店からスタートして一大流通グループを築き上げる道程は、父への愛憎と弟への対抗心という、抜き差しならない個人的情念が燃料となっていたのです。