天正3年5月21日、三河国設楽原(現在の愛知県新城市)で繰り広げられた合戦は、織田・徳川連合軍約3万8000に対し、武田軍約1万5000が対峙する形で幕を開けました。武田信玄の死後、勢力拡大を狙う武田勝頼が三河の要衝・長篠城を包囲したことに対し、織田信長と徳川家康が大規模な救援軍を派遣したことが直接の発端です。
この戦いが日本史上の転換点と呼ばれる最大の理由は、野戦において大量の火縄銃と強固な陣地構築(馬防柵)が組織的に運用され、伝統的な騎馬突撃戦術を完全に打ち破った点にあります。設楽原の湿地帯を挟んだ激突は、中世的な名誉を重んじる突撃戦法から、緻密な計算と兵站に基づいた近代的な集団戦法へと時代が切り替わった象徴的な現場でした。