平塚らいてうを語る上で欠かせないのが、同時代を駆け抜けた2人の傑物、市川房枝と与謝野晶子との思想的交錯です。
市川房枝との共闘、そして袂を分かった理由
1919年に立ち上げられた「新婦人協会」において、らいてうと市川房枝は二人三脚で運動を牽引しました。直感的なカリスマ性と言論力で大衆の心を掴むらいてうに対し、市川は徹底した調査能力と組織実務を担う実務家でした。2人の補完関係によって、不可能と見られていた治安警察法の改正要求は国会を動かす大きなうねりとなります。
しかし、運動が進むにつれて2人の間には決定的な亀裂が生じました。画一的な組織運営や過密日程を重視する市川に対し、当時幼い子どもを抱え、病弱でもあったらいてうは家庭と運動の両立に苦しみ、ときに集会を欠席しました。リアリズムを重んじる市川は「運動を私情で停滞させている」と批判し、理想主義的で家庭も等しく重視するらいてうと衝突します。結果として市川は協会を離脱して渡米することになりますが、晩年の手記でお互いの類まれな才能と功績を高く評価し合っており、決して矮小な仲違いではなく「運動の進め方を巡るプロフェッショナル同士の思想的葛藤」であったことが分かります。
与謝野晶子との対立「母性保護論争」の本質
これと並んで日本思想史に刻まれたのが、1918年から雑誌『婦人文芸』などを舞台に展開された母性保護論争です。発端は、歌人の与謝野晶子が「女性が経済的に自立し、男性に頼らず自分の力で子どもを育てることこそが真の独立であり、国家に保護を求めるのは甘えである」と主張したことでした。11人の子どもを育てながら自筆の原稿料で家計を支えていた晶子らしい、峻厳な個人主義論拠でした。
これに対し、らいてうは真っ向から反論を展開します。「国家の未来を担う新しい生命を宿し、育てる母性は、単なる個人の私事ではなく崇高な公務である。妊娠・出産によって労働能力が制限される女性に対し、国家や社会が手当や保護を保障するのは当然の権利である」と返したのです。
その後、社会主義者の山川菊栄が「資本主義社会の根本構造を変革しない限り、真の女性解放も母性保護もあり得ない」と参戦し、論争は日本社会の根底を問う大激論へ発展しました。個人の自立を尊ぶ与謝野晶子の論理と、ケアの公的価値を説いたらいてうの論理。この対立図式は、100年以上が経過した現代の「自己責任論 vs 子育て支援・社会保障制度」の議論と完全に軌を一にしており、らいてうの洞察がいかに先進的であったかを如実に物語っています。